ミッドウェイから間が空いて、終戦でつなぁ~
マッカーサと櫂の再会は、和平交渉の時とは雰囲気違ったなぁ~
さてここから櫂がどう日本の復興に貢献していくのか注目だなぁ~
櫂の思い通りにいかないなぁ~
もしはだけど、櫂の作戦を上手く利用してればというところ。
勝ち驕ってた日本の状況だなぁ~
12月8日は真珠湾攻撃が実行された日。
櫂の作戦とは違うんだろうけどね。
でも史実もだけど、真珠湾攻撃は失敗だったと思うでつ。
平城京は、今から1300年ほど前に現在の奈良市につくられた都。
平城京を中心に、律令国家としてのしくみが完成し、天平文化が花開きました。平城京を中心とした74年間は、奈良時代と呼ばれているでつ。
平城京ができたのは西暦710年。
元明天皇が律令制にもとづいた政治をおこなう中心地として、それまでの都だった藤原京から遷都し、新しい大規模な都を作ったでつ。
平城京のモデルとしたのは、その頃もっとも文化の進んでいた唐の長安。
東西約4.3km、南北約4.8kmの長方形の東側に東西約1.6km、南北約2.1kmの外京を加えた総面積は約2,500ヘクタール。
都の南端にある羅城門から朱雀門までまっすぐにのびるメインストリート・朱雀大路は幅約74m。
道路というより広場と呼びたくなる広さ。
この朱雀大路の西側を右京、東側を左京というでつ。
碁盤の目のように整然と区画されたスケールの大きな都には10万人以上の人が暮らしていたといわれているでつ。
平城宮の中心は、政治・儀式の場である大極殿・朝堂院、天皇のすまいである内裏、役所の日常的業務を行う官衙や宴会を行う庭園など、都を治める官公庁が集まった平城宮。
東西・南北ともに1 kmの東側に、東西250m,南北750mの張り出し部を持つ平城宮の周りには大垣がめぐらされ、朱雀門をはじめ12の門が置かれたでつ。
平城宮に入ることができたのは、皇族や貴族、役人や使用人など、ごく限られた人々。
現在、特別史跡として、世界遺産を構成するひとつとして、だれもが自由に散策を楽しめる平城宮跡。
奈良時代の姿を思い浮かべながら、歴史のロマンがあるでつ。
昭和30年までは田畑みたいだったけど、そりから復興事業が始まったのかなぁ~
小学生くらいは平城京で野球とかしてたけどね。
今は完全に観光スポットとなったでつ。
24年大河ドラマ「光る君へ」の主人公が紫式部。
紫式部を知る上で欠かせない人物のひとりに、藤原道長がいるです。
藤原道長は平安時代の貴族であり、政治家としても活躍。
貴族の平安時代
藤原氏の最盛期。
紫式部は源氏物語を執筆するいっぽう、宮中で働いていましたです。
彼女は天皇の妻である彰子に仕え、家庭教師を務めているです。
その仕事のオファーをしたのが、彰子の父である藤原道長。
藤原道長は、彰子に皇后として十分な教養を身につけさせるため、優秀な女性を探していたです
そこで目に留まったのが、宮中でも評判になっていた源氏物語の作者・紫式部です。
紫式部にとって藤原道長は、教え子の父親であり、雇い主だったことになるです。
また紫式部は、藤原道長に執筆活動を支援してもらってもいたです。
当時は高級品だった紙や硯をプレゼントされたり、ときには物語の続きを早く書いて欲しいと激励の手紙もあったです。
藤原道長が執筆を促したのは、彰子と天皇の仲を深めるため。
物語の続きがどんどん発表されれば、源氏物語を愛読していた天皇は、頻繁に紫式部のもとを訪れるです。
すると必然的に、彼女と一緒にいる彰子とも接する機会が多くなるわけ。
もちろん藤原道長自身が、源氏物語の熱心なファンだったともいわれているです。
いずれにせよ、紫式部にとって道長は執筆活動の大きな後援者。
「紫式部なくして藤原道長なし」「藤原道長なくして紫式部なし」と言われる所以。
大河ドラマも戦国はわかりやすいけど、平安時代とかは人間関係が複雑。
まずは、大河ドラマ見る前に歴史を学ぶのが先決になるでつ。
史実をどうアレンジしてドラマを組み立てていくかも楽しみでもあるでつ。
真珠湾攻撃は第一次の任務は完了したけど、その後が史実とどう変化するか。
いよいよ真珠湾。
史実とどうアレンジするのかなぁ~
大和の扱いだなぁ~
謙信と信長というと手取川の合戦が有名。
だけど、信玄ほど絡みはなかった気がするでつ。
戦の天才 謙信に対して信長はどう対応してたのかも興味があったでつ。
どちらかというと…
信長、秀吉、家康とは絡みが少なかった気がするでつ。
そんな中で謙信と信長の本が出たでつ。
そこでは…
濃尾の織田信長は、とても野心的な人物と見られているです。
父・織田信秀がそうであるように、もともと一介の武人という意識が強く、はじめのうち為政者とは自認していなかったです。
尾張時代の信長はかつて尾張守護の斯波義銀を追放したが、これもやりたくてやったわけではないです。
このへんは、今までの信長のイメージとは違う新しい信長像な感じ。
戦国時代は、下克上の時代といわれるように、家臣が主君を裏切ったことがよく知られていいるです。
だが、実は主君も家臣を裏切ることがあったです。
信長より今川義元が怖いからと裏切った家臣がいたように、主君が有力な部下を裏切ることもあり、そうなったら信長も汚名を甘受してでも対応しなければならなかったです。
結果として将軍や主君を追放した信長だが、人並み以上の忠義の心、それがなければ、足利義昭を救うため命懸けで本圀寺の変や姉川合戦を戦ったりしないです。
上杉謙信は、前将軍・足利義輝の弟である足利義昭が上洛して新将軍となるのを、そんな信長が支えることを遠国より応援していたです。
信長は甲斐の武田信玄とも敵対関係に入り、信玄嫌いの謙信は信長と軍事同盟を結んで、同志的関係を深めたです。
「川中島」や「桶狭間」といった合戦により、今川氏との同盟関係に緊張が生じていた武田信玄は、織田信長と同盟関係にあった徳川家康と協調し、駿河の今川氏領国への侵攻を開始。
それに対抗するため相模の北条氏は、上杉謙信と和睦・同盟を結び武田信玄に対抗しようとします。すると武田信玄は同盟関係にあった織田信長に頼み、信長と将軍・足利義昭を通じて上杉氏と和睦を開始。
結果、上杉氏と北条氏の不和から越相同盟は成立しませんでしたが、代わりに1571年には武田氏と北条氏の間で甲相同盟が回復。
その頃の信長は、信玄から頼まれていた甲越和与のために奔走していたけど、1572年10月信長は足利義昭に対して17条の詰問文を送り関係が悪化。
同じころ武田信玄は将軍・足利義昭に応じて「西上作戦」を開始、上杉謙信に対しては石山本願寺や椎名氏・神保氏といった越中の諸将を調略して越中大乱を起こさせ、謙信を越中に留まらせることに成功。
信長も包囲網に対応するためかなり苦しい状況。
そこで、謙信と織田信長と上杉謙信による濃越同盟で、この同盟が締結したのは1572年11月。
元々、織田信長は甲斐の武田信玄との間に同盟を結んでいました。
今まで友好関係にあった武田信玄の行動に危機を感じた織田信長は、上杉謙信に対して協力を持ちかけ軍事同盟を締結。
その関係も最初は友好だったけど、それもくずれていったです。
1575年、信長は権大納言に任じられ、征夷大将軍に匹敵する右近衛大将を兼任。
このことで朝廷から天下人であることを公認されたです。
1576年に安土城の築城を開始し、順風満帆でしたが、ちょうど安土城の築城が開始されたころ、信長に誼を通じていた丹羽国の波多野氏が反旗を翻し、石山本願寺が再挙兵、再び信長に対抗する動きが強くなり始めるです。
それに対して信長は明智光秀らをはじめとして、3万の兵を大坂へと送りこみ、さらには信長自らも出陣し本願寺勢を撃破。
だけど、本願寺の援軍に訪れた毛利氏の水軍800隻を前に織田の水軍は敗れたです。
本願寺は信長に対して挙兵したものの、長島・越前と信長に敗北を喫して追い詰められたです。
そこで、本願寺を束ねる顕如は、長尾能景の時代から敵対していた上杉氏との和睦を模索し始めるです。
また、足利義昭は、上杉・武田・北条の和睦を調停しようしますが失敗に終わるです。
これにより織田と上杉の関係は変化。
北陸の一向門徒が謙信に助力を求めたこともあり、長い間不仲であった顕如と上杉氏は和睦し同盟を結んだです。
信長と謙信は敵対関係になったです。
そして、手取川の合戦です。
でもこも手取川の合戦は史実として実際にあったのかというのもあるです。
謙信が信長本体を負かした戦。
手取川の合戦は勝家が、七尾城が落城したことも知らないまま、手取川を渡って水島に陣をはったです。
このことを知った謙信は数万という大軍を率いて一気に南下し、形勢不利を悟って撤退を開始した織田軍を謙信率いる上杉軍本隊が追撃、手取川を渡ることに手間取っていた織田軍を撃破。
このとき上杉軍2万、織田軍4万という圧倒的兵力差にありながら、これを一蹴したのは、「軍神」と呼ばれるほどの圧倒的強さを誇った謙信だからこそ。
ここで一気にたたけばというところだけど、謙信は義を重んじるので、春日山へ戻ったです。
結果的に信長は、助かったことになるです。
信玄も謙信も歴史のもしがあるとすれば、勝ったその後をみたいところです。
天下に王手をかけた織田軍をあっさりと破り、「天下統一も容易い」と言った謙信が次にどんな手を打ったのかは興味があるです。
いよいよ真珠湾へカウントダウンだなぁ~
戦国武将の人気ランキングでは、常にベスト5位以内には入ってる伊達政宗公。
戦国最後の武将とも言われているです。
ちなみにでき大大河ドラマの視聴率No.1は、独眼竜 政宗。
そりだけの人気もあるけど…
すでに秀吉、家康の天下だったけど、隙あらば天下統一の野望を持ってたです。
初代仙台藩主で、乱世は戦場を駆け抜け、平時は領地経営に勤しみ、大都市・仙台の礎を築き上げたです。
戦国武将として南奥州の山形県、宮城県、福島県の一部を駆け巡り、戦のない江戸時代では仙台藩62万石を治める為政者として活躍した伊達政宗公。
伊達政宗公は、信長、秀吉、家康より約30歳前後も年下。
生まれた頃は、戦国時代も終盤にさしかかっていたです。
もし政宗が10年早く生まれていたら、日本史は変わっていたかもしれないという意見もある魅力的な武将。
特に秀吉との対面は、大河ドラマでも超名場面だったです。
もともと伊達氏は中央権力である豊臣氏の束縛に対して不服従であり、自由な態度を示していたです。
その上で、同じような立場にある東海の徳川・関東の北条とある種の連合を組んだ形になっていたため、
むしろ本来、政宗は北条側に味方するべきだったといえるです。
実際、北条氏としては伊達氏による援軍を期待して天下の名城・小田原城にこもった節もあったです。
それでも、政宗は北条を見捨てて豊臣氏に味方することを決断し、小田原へ向かったです。
小田原を包囲する未曾有の大軍、また秀吉の機敏な動きを見て、抵抗しても無意味と判断したです。
野心家として知られる政宗としては苦渋の決断だったはず。
関東を大回りして進んだこともあって、ようやく辿り着いたときには完全に「遅刻」の状況。
そのせいか政宗はしばらく幽閉され、使者の詰問に応えた上でようやく秀吉への謁見を許されているです。
政宗はどこまでも大胆不敵だったです。
幽閉されて、もしかしたらという時期に「ぜひ千利休殿に茶を習いたい」などと申し出た挙句、秀吉との対面に際しても白衣で挑んで見せたです。
この度胸はむしろ秀吉に評価され、杖で首筋を叩かれ「首が危なかったな」と脅されつつも遅刻を許されることになったです。
やがて小田原城は落ちて、秀吉は東北へ進んで諸大名を降伏させ、天下統一を達成。
そうして始まる豊臣政権の時代において、政宗は自らの領地を守ることに成功。
その背景には、小田原攻めの裏に隠れた政宗の決断と度胸があったです。
いつの時代も、思い切りの良さはしばしば人を救うです。
そして、天下への野望を狙い、それが時々危ない目にあっても、巧みな逃げ口実を作っていたです。
もし本当に、伊達政宗公が10年早く生まれていたら、日本の中心は仙台だったかも
しれないです。
歴史にもしは禁物だけど、伊達政宗公だけはs、そう思わせてくれる戦国武将。
だから、高い人気を誇っているです。
密月が…
こりからどうなるのかなぁ~
史実のアレンジがどこまであるのかなぁ~
大河では2度目の主役。
松潤が家康役。
40年前は滝田栄さんだったなぁ~
さて…
前回の家康がよかっただけにどういうストーリに仕立てるか楽しみだなぁ~
でも、できるだけ歴史に忠実にやってほしいなぁ~
最近、アレンジ多いからなぁ~
宇宙航空研究開発機構などが進める、宇宙の始まりの理論を証明する天文観測衛星の開発が本格化するでつ。
米航空宇宙局との協力が実現せずいったん行き詰まったが、フランスなどと協力して2028年度の打ち上げに向けて動き出したでつ。
観測で理論を証明できれば日本人研究者のノーベル賞につながる期待が高いでつ。
天文観測衛星「ライトバード」は宇宙の始まりとされるビッグバンより前の、宇宙が誕生する瞬間に関する理論の証明をめざすでつ。
「インフレーション理論」と呼ばれるこの理論は、1980年代初頭にそれぞれ独立に論文を発表。
観測で理論が証明されれば、ノーベル賞受賞は確実と考えられているでつ。
衛星がめざすのは宇宙に満ちている宇宙マイクロ波背景放射と呼ばれる電磁波の中に「Bモード」と呼ばれる特殊なパターンを検出すること。
Bモードが検出されれば、インフレーション理論の決定的な証拠になると考えられているでつ。
これまでも観測衛星や地上の望遠鏡などを使って検出が試みられてきたが、まだ実現していないでつ。
そこで、JAXAなどによるプロジェクトではより高い検出感度を持つ衛星を打ちあげるでつ。
計画を進める高エネルギー加速器研究機構特は「既存の『プランク衛星』に比べて最終的な感度は100倍になる」と説明。
実は、この衛星の開発はいったん暗礁に乗り上げたでつ。
当初はNASAと協力して開発する計画だったが、2020年にNASAの予算が承認されず、参加が取り消されたからだ。
観測のためには絶対零度近くまで冷やした超電導検出器を束ねたセンサーを使うでつ。
衛星の要となる検出器の開発やデータ解析をNASAの協力で進めることになっていたでつ。
NASA抜きでどう検出器を開発するか。そこで活用されたでつが、21年度に高エネ研に開設された「量子場計測システム国際拠点。
文部科学省による世界トップレベル研究拠点プログラムの一環で、計測科学に特化した開発に取り組むでつ。
ライトバードの検出器はこの拠点の旗艦プロジェクトに選ばれ、QUPを通じて検出器開発に関わる米カリフォルニア大学バークレー校なども参加できる体制を構築。
タイミングがよかったでつ。
現場はNASAの協力が得られていた場合と比べてそれほど変わらない体制ができたでつ。
海外からはフランスが協力することも決まったでつ。
JAXAとフランス国立宇宙研究センターが21年10月に協定を締結。
CMBの観測に活躍したプランク衛星の技術を基に、まず中高周波望遠鏡と呼ばれる装置などの初期フェーズの開発にCNESが参加。
こうした新しい開発体制が整ったことで、NASA抜きでプロジェクトを進めるめどがたったでつ。
22年5月には政府の会議で、日本の宇宙開発の進め方を示す工程表に28年度の打ち上げを目標に開発に着手すると明記することが承認されたでつ。
打ち上げ後は約3カ月かけて月の裏側の先にあるラグランジュ点と呼ぶ観測場所に到達、3年間観測する計画。
ライトバード以外にも同様の観測衛星が欧米で計画されているが、早いものでも打ち上げ目標は30年代後半になるでつ。
南極やチリに設置された多数の望遠鏡を使って地上から観測するプロジェクト「CMB S4」も稼働は29年以降を予定する。
7年間かけて全天を観測する計画で、データが出るのは30年代に入ってから。
計画通りに打ち上げられれば、ライトバードは20年代中にCMBの詳しいデータが得られる唯一のプロジェクトになるでつ。
インフレーション理論の検証は宇宙の始まりの研究だけでなく、素粒子物理学の基本理論の研究などにも大きな影響を及ぼすでつ。
順調に開発が進んで貴重な観測データを得ることができるか、世界の科学者の期待を集めているでつ。
瀬島さん登場。
壮大な計画だなぁ~
これが実現してたら、どうなってたのかなぁ~
アルキメデスの大戦で、櫂の上司として、描かれてる山本五十六さん。
ハワイの真珠湾攻撃を計画、実行した日本海軍の提督。
最後の最後まで日米開戦を回避するように頑張ったけど、結局、日米開戦の戦火を切る形となったです。
アルキメデスの大戦では、櫂と黒岩で真珠湾攻撃を計画。
櫂は、架空の人物だけど、黒岩はたぶん、黒島さんだと思うです。
ちなみに大和を設計した平山は、実際に大和を設計した平賀さんがモデル。
アルキメデスの大戦を読んでて、どこまでが史実でどこからがアレンジなのかわかんないとこあるでつが、五十六さんの本を読んでると、ある程度史実通りだなぁ~とわかるです。
真珠湾攻撃も櫂の作戦とどう違うのかなぁ~
大和に乗ってる五十六さんは、ハワイへ当直するのかなぁ~
史実では、真珠湾の頃は、大和は建造中のはず。
だけど、アルキメデスの大戦の五十六さんと五十六さんの本読んでるとなんとなく、イメージは合うなぁ~
アメリカは、五十六さんが一番怖かったみたいです。
日本で、五十六さんを超える提督はいなかったです。
先見の目はすごい。
戦略も古い巨大戦艦の時代ではなく、航空機の時代というのも読んでたです。
そのため、航空機と空母の充実を訴えて、太平洋戦争が始まる頃は、アメリカより空軍というカテゴリでは上回っていたです。
だけど、日本は古い格式と日露戦争での戦果から巨大戦艦主義も捨てきれなかったです。
やはり先駆者というのは、難しいけど、五十六さんは、統率力も抜群。
古い日本の格式を打ち破ることもやった成果が真珠湾だなぁ~
もうすぐ終戦だけど、五十六さんの作戦通りなら、早期に日米戦争も終了してたと思うです。
歴史をよむと改めて、五十六さんの凄さを認識させられるです。
いよいよ真珠湾へカウントダウンでつ。
上層部を上手く説得できたでつ。
さて、平山の大和はいかにでつなぁ~
大和が消えたので、アメリカとの戦争は避けれなくなったでつ。
ここから櫂の戦略がどう生きるか…
だけどもし、櫂の大和が実在してたらというのも考えると興味津々になるでつ。
2022年の大河ドラマ。
主演の小栗くんが演じるのが、北条義時。
北条氏は源頼朝を陰日向に支えながら勢力を拡大し、頼朝のあとを継いで鎌倉幕府の実権を握る一族。
当時は、政治の実権が公家から武家へと移り変わろうとしている時代。
平治の乱では皇室・摂関家の争いに源氏と平氏がそれぞれ力添えをして争い、平氏が味方に付いた後白河上皇側が勝利。源氏の総領であった源義朝は敗走中。
他方、北条家は伊豆蛭ヶ島(いずひるがしま)に流された源頼朝を監視する役目を命じられたでつ。
ここから北条一族と源氏の関わりが始まったとされるでつ。
頼朝が平氏を打ち倒すために挙兵した際、時政、義時親子も参戦するでつ。
葦屋浦の戦いでは義時が大活躍したでつ。
北条家は戦に参加するだけでなく、関東地方の武士の協力を得られるように働きかけしたとも言われているでつ。
こうして時政、義時親子は源氏内での地位を確立していったでつ。
頼朝が、奥州藤原氏を攻略しますが、そのときも義時が頼朝の近くに控え、信頼を得ていたでつ。
源頼家という子どもが二代将軍として家督を継いだでつ。
ところが、家臣たちは頼家の独裁政治を防ぐために、「13人の合議制」という仕組みを考えたでつ。
将軍だけでなく有力な御家人たちが話し合いで政治の方向を決めることになったでつ。
そのなかに、時政・義時親子の姿もあったでつ。
13人の御家人たちは決して仲が良かったわけではないでつ。
たとえば、二代将軍頼家に娘を嫁入りさせていた比企能員は北条氏の台頭を面白く思ってなかったでつ。
将軍家の権力が、13人の合議制で削られてしまうわけですから当然。
頼家が病気になったことをきっかけに、頼家の領地を頼家の子どもたちで分割することが13人の合議制で決定。
これを知って頼家は大いに腹を立てるでつ。
そこで頼家は、妻の父親である比企能員に時政を征伐するように命じたでつ。
それを知った義時はすぐさま比企一族を討ち滅ぼしたでつ。
頼家も北条家によって追放。
三代将軍についたのは頼朝の子どもである源実朝。
義時の父、時政は政所別当)に就任して執権となり、政治の実権を握ったでつ。
北条氏は比企氏以外の有力御家人たちの排除を続けたでつが、とうとう時政と義時親子が対立するときがきたでつ。
時政が三代将軍源実朝を将軍から変えようとしたとき、義時は実朝側に付き、北条時政の企てを阻んだでつ。
この出来事により、時政は失脚。執権の地位は義時に移ったでつ。
義時は時政が就いていた政所別当だけでなく侍所別当も兼ねるようになり、執権としての地位を確固たるものしたでつ。
義時が、北条家の地位を盤石なものにしたのが、承久の乱。
頼家も実朝いなくなって、頼朝直系血族は絶えてたでつ。
そこで義時は京都の天皇家から将軍を迎えようとするでつが、朝廷の権力拡大を目論む後鳥羽上皇にこれを拒否。
後鳥羽上皇は天皇家の領地をまとめ、強力な院政を敷いていたでつ。
鎌倉での北条氏の台頭を恐れた後鳥羽上皇は義時追討の命令によって武将に号令をかけ、討伐軍を結成。
そこで義時は姉の政子と協力して、鎌倉幕府の武士たちを説得。協力して後鳥羽上皇軍を打ち破り、関わった上皇三人を島流ししたでつ。
承久の乱で北条氏が勝利したことによって、天皇家の権力は弱体化し、鎌倉幕府の支配は全国に及ぶことになったでつ。
以後、鎌倉幕府の将軍は摂関家や皇室から迎えられるようになるでつが、どれも形式的な存在で、鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることになるでつ。
義時は争いに次ぐ争いの人生のなかで、ついに覇権を手に入れたでつ。
ただ、これらの歴史は後世に鎌倉幕府の中枢によって編纂された「吾妻鏡」によるものが多く、争いのきっかけや経緯については諸説あるでつ。
頼朝は義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」と称していたとも伝えられているでつ。
「他日必ず子孫の補佐たらん」というのは、「いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう」という意味。
北条一族は執権として鎌倉幕府を支えることになるのですから、頼朝の予想は的中したとも言えるでつ。
ただ、将軍家は北条氏によって完全にあやつり人形のようになっていったので、そういう意味では間違いとも言えるでつ。
頼朝に信頼されていた義時はどのような性格だったか。
今から1000年近くも前に生きた人物の性格は、残された文書などから推測しかないでつ。
すると見えてくるのは、義時の時流の見る目の鋭さ。
義時は常に「勝ち馬」を当てているでつ。
源氏と平氏の争いの際は、不利だと思われていた源氏に付くでつ。
また、鎌倉幕府内に権力争いがあった際も、強い側に付いたでつ。
頼家でなく実朝を選んでいたでつ。
家族でも主君でもなく、強きを見極め、地位を確立していったでつ。
そこには、時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず「勝ち馬」にすることができる実力と強い意志があったと思われるでつ。
義時は父である時政とともに、伊豆の豪族から武家の頂点にまで成り上がった人物。
義時の人生からの学びは臨機応変に行動することの大切さ。
義時は固定観念にとらわれずに選択し続けることで、鎌倉幕府での権力を握るでつ。
また、自らの勢力を拡大、維持するために、ときには主家に刃を向け、父親とも対立。
ただ、明治時代には目上の人間を監視したり、追放したりした義時に対して、「大悪人」というイメージを多くの人が持っていたでつ。
しかし、近年の研究で、一方的な悪人というイメージだけで捉えきれない義時の人物像も見えてきているでつ。
注目すべき点は、義時の臨機応変ぶり。
次々と直面する危機、状況の変化に対して、彼は冷静に自分がとるべき行動を判断し、生き残ったでつ。
義時が生きた時代はサバイバルの時代。
現代とは単純に比較できませんが、義時の生き方は現代の社会生活にも応用できるはず。
困ったとき、ピンチに陥ったときは、自分の固定概念にとらわれて判断を狭めるのではなく、広い視野を持って柔軟に判断すると、よりよい結果が得られるでつ。
さて、どういう風にドラマが展開していくか楽しみでつ。
見事に勝利したけど、大和がどうなるかでつなぁ~
竹田城跡は、標高353.7mの古城山山頂に築かれた山城。
古城山の山全体が虎が伏せているように見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも呼ばれているでつ。
天守台・本丸を中心に、三方に向けて放射状に曲輪が配置されてて、縄張りの規模は東西に約100m、南北に約400m、「完存する石垣遺構」としては全国屈指の規模を誇るでつ。
築城当時は土塁で守られていた城が、最後の城主赤松広秀により、今に残る総石垣造の城に改修されたとされてるでつ。
平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されたでつ。
この地域は、しばしば秋の良く晴れた朝に濃い霧が発生するでつ。
この朝霧が竹田城跡を取り囲み、まるで雲海に浮かぶように見える姿から、いつの頃からか竹田城跡は「天空の城」と呼ばれるようになったでつ。
日米交渉上手くまとめたけど…
連合艦隊勤務ということで…
真珠湾攻撃作戦とこれからどう展開していくのかなぁ~
アメリカとの平和交渉をまとめたでつが、今度は日本での説得。
こりも櫂がどう対応していくかでつなぁ~
特に大和でつなぁ~
いよいよアメリカとの本格交渉でつなぁ~
マッカーサと櫂。
いつかまた対談することあるのかなぁ~
そいと…
ルーズベルト大統領との交渉も見物でつ。
第二次世界大戦へ突入でつ。
そして…
いよいよアメリカと和平交渉へでつなぁ~
ドイツへでつなぁ~
この頃のドイツの工業力はアメリカと双璧でつなぁ~
夢の戦艦大和製作へ進むでつなぁ~
飛行機の開発、大和の開発と櫂直大活躍でつなぁ~
大和にガスタービンを積んでたら面白かったけど…
ジェットエンジンはまだまだまだの時期だったでつなぁ~
JR安土駅の北東、標高199mの安土山一帯にある織田信長の居城。
天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成。
築城には…
みたいでつ。
この安土城の天主がすごい。
近代城郭では「天守」と表記されることが多いのですが、安土城の場合は「天主」と表記するでつ。
この城つくりは…
なったでつなぁ~
遺跡も…
まだまだ調査中でお宝がいっぱいありそうでつ。
安土城の特徴は…
安土城が、これまでの城と大きく異なるのは豪華絢爛な天主を持っている点。
天主は城の中核をなす建造物でもあるため、利用するのは有事の際のみであることが通例。
だけど、織田信長は天主に住んでいたと言われているでつ。
安土城の天主は、「望楼型」(ぼうろうがた)と言われる種類。
望楼型というのは、天主の上層と下層の建物の形が異なり、入母屋(いりもや)造りの建物の上に望楼と呼ばれる物見櫓(ものみやぐら)を乗せたスタイルで、のちに築かれていく近代城郭にも大きな影響を与えているでつ。
安土城の天主は5層7階(地上6階、地下1階)で、八角形の望楼に金箔が施された瓦を使用してて、最上階となる6階は、金色の室内に狩野永徳(かのうえいとく)の金碧障壁画が飾られる豪華さ。
5階は、天井や柱がすべて朱塗りになっていて、まるで法隆寺夢殿のような世界が広がる空間。
また、5階は地下1階から吹き抜けの空間が作られ、茶座席なども設けられていたでつ。
それより下層の内部は、黒漆塗りです。また、外観について5層7階(地上6階、地下1階)という造りは、宣教師ルイス・フロイスに「ヨーロッパにもないもの」と言わしめたと伝えられているでつ。
安土城の縄張は、安土城は、標高199mの安土山に築かれた山城。
山頂には、天主、本丸、二の丸、三の丸が配置され、自然の地形を活かした縄張になっているでつ。
安土山の麓から天主に向かって、約180mもの長さにまっすぐ伸びる幅広い大手道はすべて石段で造られており、他の城では見ることのできない壮大なスケール。
そして山の中腹からは幾重にも折れ曲がっており、複雑な地形を利用した縄張となっているでつ。
安土城中枢部への入り口となる黒金門跡周辺には、安土城の中でも特に巨石が使用。
枡形の出入口(虎口)を抜けた後は左右どちらにも道があり、侵入者をここでも防げるような構造になっているでつ。
安土城は、山全体を城郭として石垣を積み上げていく総石垣造りが大きな特徴です。ここではその石垣を手掛けた職人。
安土城の天主台の石垣は9mもの高さがあり、その上に32mもの高さの天主が築かれているでつ。
頑丈な石垣を造るためには高度な技術力が必要。
安土城の石垣は、穴太衆と呼ばれる、非常に高度な技術を持った石工職人集団を中心に築かれたでつ。
穴太衆の素晴らしさは、自然石を積み上げただけで強固な石垣を造る技術を生み出したこと。
崩れない石垣を作るためには、隅にあたる角の部分が重要。
穴太衆は、強度の強い角にするために「算木積み」という技術を生み出し、安土城に取り入れたでつ。
算木積みは、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を高めるという技法。
穴太衆によって築かれる総石垣は、その後の城郭建築に大きな影響を与え、安土城は日本城郭史の新しい始まりとなったでつ。
穴太衆の技術は、その後、数々の城に活かされているでつ。
安土城は山麓に家臣の屋敷を抱えていたことが明らかになってるでつ。
屋敷群は大手道の両側にあり、豊臣秀吉や前田利家が住んでいたと伝えられる屋敷跡も残っているでつ。
発掘調査で、土器や陶磁器も出土したことにより、生活も営まれていたことが明らかになったでつ。
当時は、書院造りの主殿を中心に多くの建造物が建てられていまたでつが、現在その姿はなく、礎石や石垣のみ。
安土山の中腹には、息子の織田信忠、側近の武井夕庵、森成利、織田信澄)の屋敷跡の石碑があるでつが、山頂の天主に「居住する織田信長を護衛するため、このように家臣の屋敷を数多く建てていたと考えられているでつ。
安土城後には30年近く行ってないなぁ~
また行きたいけど今、入山料がいるみたい…
でもこりで安土城の謎が解ければと思うでつなぁ~
大型軍艦建造を阻止するために戦闘機の開発でつなぁ~
海軍の新型戦闘機競争試作に参入したでつなぁ~
中島飛行機の小山さん、三菱重工の堀越さんと実名で登場してるでつなぁ~
97式戦闘機の開発において…
画期的ななのは、中島のエンジン 寿と三菱の機体を合体させてことでつなぁ~
そのために陸軍との交渉もごいなぁ~
この頃って空軍ってなかったんでつなぁ~
永田鉄山さんは、スケールが大きい人だなぁ~
永田さんが生きていたら過ちは防げたかなぁ~
こういう開発物語は大好きだなぁ~
2020年の大河ドラマの主役。
光秀と言えば、本能寺の変。
史実に合わせて、どう描くのか、今まだのイメージが変わるかなぁ~
それと…
今までは、信長、秀吉側で描かれてたけど、初めて光秀側で描かれるから、その辺も注目だなぁ~
家康の時にドデカイ天守閣があって、幕府の威光を示すものだったでつ。
だけど経済的理由と戦のない時代となったため、天守閣の再建はなかったでつ。
その江戸城跡は今は、皇居になってるでつなぁ~
そして…
22日は即位礼正殿の儀の行われるです。
戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。
歴代当主五人は、北条五代と呼ばれているです。
明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入ったです。
以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていったです。
二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、文化の中心として繁栄。
そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築いたけど、天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城したです。
伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身。
伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していたです。
長享元年(1487)以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出。
伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495))に相模小田原(神奈川県小田原市)へ進出し、その後相模一国を平定。
伊勢宗瑞は、伊豆討ち入りが戦国時代の始まり、とされるです。
少なくとも一介の役人であった彼が、下克上の端緒として非常に意義のあるもの。
伊豆や相模といった一国を制圧したにもかかわらず守護にはならなかったことから、最初の戦国大名とされているです。
二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られているです。
本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物。
また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立。
三代氏康は氏綱の後、家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、領国支配の体制を本格的に整えたことで知られているです。
天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大。
四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承。
永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けているです。
氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨。
天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで開城。
五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承。
天正10年(1582)には、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達したです。
だけど、小田原合戦の開城後、高野山へ。
約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配したです。
関東三国志として、武田、上杉、北条と駆け引きとか興味深いです。
NHKの大河ドラマで、なぜかまだ一度も主役やってないのも七不思議なところ…
関東三国志と合わせて大河で、やってほしい主役です。
万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集。
全20巻からなり、約4500首の歌が収められているです。
作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠み込まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及ぶです。
万葉の歌の詠まれた時代は、仁徳天皇の皇后であった磐姫皇后の歌(巻二の85~89番)と伝えるものがもっとも古い。
万葉時代は、天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇以降と考えらるです。
万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの、約130年間といえるです。
「万葉集」という書名の意味は、「葉」は「世」すなわち時代の意であり、万世まで伝わるようにと祝賀を込めた命名と考えられているです。
万葉集の編纂、成立の経緯については詳しくは分かってはいないけど、一人の編者によってまとめられたのではなく、何人かの編者の手が加わり複雑な過程を経て成立したもので、最終的に大伴家持の手によって20巻にまとめられたのではないかとされているです。
古代は自然を畏怖し、敬い、山には山の神、川には川の神がいると信じていた時代。
万葉の時代はそういった自然に対する畏怖の感情からやがては解放され、自然を自然として讃美するように移行してゆく時代。
人々が自然とともに生きていた時代であり、万葉集には自然が豊かに詠み込まれているです。
山川も万葉人と身近な存在でした。ことに飛鳥・藤原宮から平城京に至るまで日本の中心であった奈良盆地の中央を流れる大和川は人々にとって親しい川であり、
人々の暮らしと関わって数多くの歌が残されているです。
和歌の前では身分は問わない、というこの姿勢は世界的にみても特異なもの。
万葉集では五七五七七の短歌が全体の9割を占め、この他に長唄や旋頭歌なども一部収められているです。
大学くらいまでは、FM局が少なかったから、FM-NHK奈良のリクエスト番組聴いてたこともあるでつが、万葉集には結構馴染みがあるでつなぁ~
だから、新元号の令和はすごく親近感が湧きますなぁ~
頼朝というと嫉妬深い印象があるけど…
源頼朝は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。
源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町辺りで誕生、北条政子の夫。
母は熱田神宮宮司藤原季範の娘。
頼朝の幼名は「鬼武者」。
義朝の三男として生まれたが源氏の嫡流として育てられた(母が正室の子であった為)。
平治の乱で頼朝は捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなったです。
そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。
治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートしたです。
木曽の従兄弟・木曾義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったですが、平家を打倒し全国を制覇。
建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立。
鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行して、武士の棟梁でありながらその真面目さはまさに偉大な政治家。
頼朝が源氏の嫡男だからなのか,平家に対する反感からなのか,流人時代の頃から頼朝のもとには豪族達の師弟が多く出入りしていたです。
立場の弱い武士はのちに頼朝が力を持った時の「保険」の意味もあって頼朝と通じ合っていたです。
だから流人とはいっても,頼朝は集まった豪族の息子達を連れて狩りに行くなど,案外自由な生活だったです。
頼朝の身柄を引き受け,監視役だった北条氏は平氏の流れを組む豪族。
だけど頼朝の行動にはだいぶ目をつぶっていたです。
それどころか自分の娘である政子を嫁にしたです。
北条時政は何かがあれば頼朝をうまく利用しようと考えていたです。
だから,自らが決断して山木襲撃の実動部隊になるところまでは予想していなかったです。
常識で考えれば山木襲撃は成功しても,「そのあとが大変だ」ということは容易に予測のつくこと。
なぜなら,まだ勢力の弱い頼朝を討ち取れば,大きな恩賞がもらえるから。
大庭景親をはじめいくつかの豪族はそうした行動を取ったです。
大庭景親には源氏に対する不信感もあったですが、そこは…
時政たち北条氏は一族をあげて甲斐の武田源氏,相模の大豪族三浦義明,房総の有力者千葉の介常胤と連絡を取りあうです。
石橋山で破れたあとも,この関係は続き,頼朝が安房(千葉県)に逃げたのちはふたたび千葉氏を中心に豪族達をまとめていったです。
その中心だったのが千葉の介常胤。
彼は頼朝に「鎌倉」に行くことをすすめ,上総の介広常の性格を読み抜いて頼朝軍に参加させることに成功。
だから頼朝は常胤を「父とも思う」と言ったです。
それ以外にも豪族の中から優秀な人を頼朝はブレーンに加えていったです。
頼朝は本格的な政権を作り上げていくために「大江広元」「三好康信」といった法律や事務能力にたけた人を京都から呼び寄せて,ブレーンに加えていくです。
こうして頼朝の回りは優秀な人間で固められていったです。
優秀な人間には優秀な人間が集まることの証。
このように頼朝は人材に恵まれ,関東の武士達の支持も得て鎌倉に武士の利益を守る組織を作るです。
これが後世に言われる鎌倉幕府。
頼朝は主従関係を持った御家人達に,差別すること無く土地争いの裁定を行ったり恩賞を与えているです。
また,領地も狭く家来も少ない小さな御家人でも,顔を覚え性格までよく知っていたと言われているです。
御家人にしてみれば大変に信頼できる人物だったです。
頼朝が源氏の嫡男というだけでは,とても豪族たちの支持を得ることはできません。
頼朝は信頼できる人の言葉を聞き「豪族=武士」が何を望んでいるかを理解して行動したです。
武士の望みとは,まず自分の領地を認めて守ってもらうこと。
次に中央の役人に必要以上の税を払わされたり,ただ働きさせられないこと。
命をかけて戦った戦争の恩賞をもらうこと。
頼朝はこれらの事を次々と実行したです。
口先だけでなく「確かに実行することによって信頼を得ていくことが大切だ」ということを頼朝は教えてくれてるです。
この本を読んでると今までの頼朝の印象が変わったです。
義経は戦は天才だけど、戦略は頼朝が上だったということ。
大坂城ほど天下人たちのエピソードが豊富な城もないでつ。
織田信長が構想し、豊臣秀吉が築城し、徳川家康が入城。
その家康が落城させ、秀忠(2代将軍)が再建し、慶喜(15代将軍)が焼失させたでつ。
「30の名城からよむ日本史」は「大坂城を舞台に繰り広げられた人間ドラマが、そのまま歴史上の重要な出来事となってきた」と指摘してるでつ。
最初に着目した覇者が、織田信長だった。戦国時代の大坂は大小の河川が流れる要害の土地。
さらに船便が発達しており、西へは瀬戸内海から外洋に出られ、東国からは物産が集積していたでつ。
「大坂城全史」は「信長は地政学的な観点から大坂という土地を高く評価した」と語ってるでつ。
信長は、まず大坂に本拠を置く浄土真宗本願寺に資金提供を要求し、さらに退去を迫ったでつ。
軍資金の要求には逆らうことなく従った本願寺顕如も、転封命令には激怒。
顕如は全国の信徒に信長打倒を呼びかけ、戦国大名らの反信長包囲網の中心として激しい攻防を繰り広げたでつ。
一時的に両者は和睦するがすぐに決裂し、最終的に本願寺が退去したのは1580年。
本格的な巨城を築く時間は信長にもうなかったでつ。
2年後に「本能寺の変」が起こったから。
信長の大坂城構想は、織田軍団のトップ層に情報共有されていたでつ。
明智光秀を討った秀吉は、早くから「大坂は信長の後継者である天下人が入るべき」としていたでつ。
「秀吉は大坂築城に、安土城のケースをそっくりまねた」と分析。
信長は1575年に、嫡子の信忠に居城の岐阜城を譲ってから安土城建設に着手。
秀吉も賎ケ岳の戦いで柴田勝家を倒した後、本拠地の姫路城を実弟・秀長に譲ってから83年に大坂築城を開始。
「信長の後継者であることを強く意識する秀吉が、新たな中央政権の樹立を狙う地位に立ったことを宣伝するために、信長と同様の演出をもくろんだ」としているでつ。
同時代の武将らには最も効果的だったでつ。
本丸に入城したのは翌84年(天正12年)。
優れた画家や建築家が最後の最後まで自作に手を入れるのと同じように、秀吉は最晩年に至るまで大坂城を手直しし、強化し続けたでつ。
家康も大坂城にこだわった一人。
1599年(慶長4年)には、政務をとっていた伏見城から大坂城に強引に入ったでつ。
しかも本丸天守閣の秀頼に対抗するかのように、自分が居住する西の丸にも天守閣を設けたでつ。
「家康様が天下様になった」と世間で噂になったでつ。
この西の丸天守閣建設は、関ケ原の戦いの際に石田三成らが糾弾する家康の罪状のひとつに挙げられたでつ。
「後に秀頼の大坂城を攻略するのに、家康は周到な準備を重ねた」と解説。
まず畿内の篠山城、亀山城、姫路城を大改修し、さらに名古屋城を新たに築城して徹底的な「大坂城包囲網」を完成。
それでも「大坂冬の陣」(1614年)では落城させられず、和睦で総堀を埋め立ててからの「大坂夏の陣」(15年)が必要だったでつ。
大坂を直轄領にした2代将軍・徳川秀忠は大坂城の修復を企て、堀の深さと石垣の高さを2倍にするよう命じたでつ。
秀吉のイメージを覆い隠したい意図から天守閣も巨大化した」でつ。
大改造した大坂城には城主は置かず、交代制の城代という形で有力譜代大名に当たらせたでつ。
徳川幕府がいかに大坂城を重視かつ警戒していたかが、うかがわせるでつ。
3代将軍・家光の弟である忠長は大坂城か所領百万石を希望。
同時代の一次史料では確認できないでつが、もし本当ならば幕府にとって最も危険な言辞だったでつ。
後に忠長は、徳川一族の中では異例の切腹を余儀なくされたでつ。
大坂城を舞台に歴史を作りあげたのは権力者ばかりではなかったでつ。
今日から約170年前の1837年(天保8年)2月19日に城下で起きた「大塩平八郎の乱」。
大坂東町奉行所の与力の家に生まれた大塩は、「知行合一」をモットーとする陽明学者でもあり、自宅で「洗心洞」という私塾を開いていたでつ。
「知識は行動を伴ってこそ完成するとして、秩序よりも行動を重視していた」でつ。
「大坂の陣以来の市街戦は小競り合い程度だったが幕府や社会に与えた衝撃は大きかった」でつ。
大塩の乱は支配者側の与力や同心が体制を批判して蜂起したものだからでつ。
武士と農民が手を組んで立ち上がったことも幕府には驚きだったでつ。
「大坂の陣は幕府の礎を固める戦いだったでつが、大塩の乱は幕府の土台を揺るがした」でつ。
31年後の「鳥羽・伏見の戦い」に敗れた徳川慶喜は単独で脱出し、幕府軍の本営だった大坂城は取り残された形になったでつ。
大坂城は、天下の城でつなぁ〜
関東地方一円の広い範囲を支配下とし、戦国時代最大の巨城 「小田原城」 に居を構えていたのがこの「北条家」。
北条家は戦国時代の歴史の流れにおいて、それほど大きな出来事には関わっていなかったため、ややマイナーな感があるけど…
広い領土を持ち、上杉家 や 武田家 などの強豪大名に何度も進攻されながらもそれを追い返した、戦国時代有数の大名であることは間違いです。
戦国大名としての北条家の始まりは、「戦国時代の先駆者」と言われる「北条早雲」から始まります。
彼は最初、今川家の家臣としてその地位を高め、領土を得ると、伊豆半島に進攻を開始してそこを支配下に収めるです。
さらに小田原(現在の神奈川県)に進攻して制圧、拠点とし、さらに周辺に勢力を広げていったです。
早雲の後、さらにその後を継いだ「北条氏綱」が関東に進出、そしてその子「北条氏康」も、後を継ぐと関東一帯を支配下とするために勢力拡大したです。
北条氏康 は 「武田信玄」 や 「上杉謙信」 に比べるとやや政治向きな人で、「武闘派」と言うイメージはあまりない感じ。
だけど、実際には生涯三十六度の合戦で一度も敵に背を見せず、受けた傷は全て向こう傷だったと言われている勇敢な武人。
1545 年には、「関東管領」という関東地方を治める役職を持っていた「山内上杉家(上杉謙信の上杉家とは別)」が、近隣の同盟国や今川家と共に8万の大軍で 北条家 に進攻して来またですが、北条氏康 は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この 10 倍の敵軍を撃退したです。
この戦いは「川越の戦い」と呼ばれ、北条家の武名を大きく上げる戦いになったです。
同時にこの戦いによって、北条家は関東一帯の支配を確立したです。
その一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、他の大名家に先駆けて「検地(土地を調べて税金などを決める事)」を実施し、通貨を統一し、経済改革に努めたです。
北条家には 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々伝わっており、北条氏康 の統治は、まさにそれを表したものであったと言えるです。
特に北条家の行政機構は非常に近代的であり、他の大名家よりも進んでいた事で有名。
その後、北条家 は 今川家・武田家 と「三国同盟」を締結。
しかしこの後、北条家は領土を守るため防戦一方の展開となって行くです。
1561年、越後の「上杉謙信」が関東管領職を譲られ、役職通りに関東を支配するため、北条家に毎年の様に進攻してきたです。
加えて、長年敵対していた房総半島の「里見家」との戦いも続き、三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくるようになったです。
かつて撃退した 「山内上杉家」 なども小勢力ながら北条家への敵対行為を続けており、まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態になったです。
そんな中、北条氏康 は小田原の城の改築を繰り返し、それを難攻不落の巨城へと変えて行くです。
小田原城の改修は以前から行われ続けていたですが、戦いが激しくなるにつれてその必要性も増していき、こうして天下の巨城 「小田原城」が誕生したです。
以後、上杉家の攻撃を受け流しつつ、里見家との抗争を続けたです。
その後は、氏政、さらに 氏直 が後を継いだです。
北条家 は 上杉家 などから度重なる進攻を受け続けたですが、巨城 小田原城での篭城戦で、それらの進攻を防いだです。
こうして、以後も 20 年近く 北条家 は外敵からの侵入を阻み、関東を支配し続けたですが・・・
その間に天下は動き続け、日本はほぼ「豊臣秀吉」に支配される事となったです。
この北条家を支配下に置かないと天下統一がならなかったことを考えると北条家の存在は大きいです。
だけど、北条氏康がまだ一度もNHKの大河ドラマ主役をやってないのは、すごく不思議だなぁ~
でも、そろそろやりそうな雰囲気ありそうだなぁ~
江戸は1590年に徳川家康が入城して以来整備が進み、徳川家の本拠地として栄えてきたでつ。
そして、1603年家康の征夷大将軍就任と共に幕府が開かれたでつ。
だけど、元々三河出身の家康が自身の出身地でも、当時の政治の中心の京都方面ではなく江戸に幕府が開いたのはなぜか。
その理由を地形的、政治的な条件から考察するでつ。
家康のプロジェクトでつなぁ~
まずは江戸の土地条件が関係していると言われているでつ。
これには3つの条件があるでつ。
1つ目は江戸の持つ地形の条件。
大きな都市が出来るにはいくつかの条件があるでつ、その一つとして、広大な平地を持ち、海、大きな川に面しているということが重要であると言われているでつ。
広大な平地の関東平野や東京湾に接し、そして日本の河川の中でも最大規模の利根川から水を引くことが出来た江戸は、まさにその成立条件を満たしているでつ。
2つ目に物流の発達を整えやすかったという点。
都市を発展させる為には物流が欠かせないでつ。
物が動けばお金も動き、人もどんどん集まって都市は大きくなっていくでつ。
当時の物流は馬による陸路と川による水路が重要で、特に船や水路の発展は当時の物流を大きく変えたでつ。
先ほど挙げた利根川の水を上手く利用する事で家康は江戸の物流を整える事を計画したでつ。
この計画は都市作りにも影響を与え、江戸は水路を軸として街が作られ、物流の発達と共に都市はどんどん大きくなっていったでつ。
最後に江戸がまだ発展の余地を十分に残した土地であった事があげらるでつ。
江戸が今までに言われているような荒れ果てた寒村ではなく、中世、もしくはそれ以前から一大都市であった事は近年明らかになってきたでつが、それでも江戸はまだまだ発展の余地を残した土地だったでつ。
それまでに関東に拠点を置いた鎌倉幕府や北条氏は、利根川近辺の勢力との兼ね合いから鎌倉方面に拠点を置いていたでつ。
江戸が拠点になったのは、そういった勢力を一掃して徳川家康が江戸城に入ってからでつ。
家康はそんな江戸の発展性に目をつけたでつ。
豊臣秀吉も同じように低湿地帯であった大阪を開拓し、一大都市として整備しているでつ。
同じように都市を築くのであればということで、同じ湿地帯という条件を持った江戸が新たな時代の中心として選ばれたでつ。
次に政治的な理由でつなぁ~
実は江戸幕府が開かれた1603年当時の徳川家は京都、特に二条城、伏見城を政治の中心にしてたでつ。
だけど、徳川家の京都の本拠であった伏見城が関ヶ原の戦いの前哨戦において、1600年に伏見城の復興も二条城の本拠化と共に中途半端になってしまったこと、
大坂にはまだ力を持った豊臣家があってそこから離れたかったこと、本拠の江戸から京都への距離があまりに離れすぎていること等の理由から、江戸に幕府を置くことにしたでつ。
こちらはどちらかと言うと消極的で、仕方なく江戸を選んだのだといった印象。
寒村の江戸を発展させたという家康の業績を持ち上げてみせるのも、政治的な理由が消極的な物だったからかもしれないでつ。
地形的、政治的、両方の面から選ばれた江戸という都市。
268年もの間幕府の拠点として栄えた江戸は東京と名前を変えた今でもなお発展を続けているでつ。
その将来性を見出した家康の目は確かな物だったでつなぁ~
大河ドラマ 西郷どんも明治維新へと進んできたですなぁ~
その革命を起こしたのが、土佐三志士!
この間は夜だったけど、昼見るとやっぱり凄さが伝わるですなぁ~
怜悧(れいり)なインテリ官僚という石田三成のイメージは後世の間違いで、武将としての資質を備えていた」――。
「果断にことを進める剛胆な」等身大の石田三成像を描き出したです。
三成が出世階段を上るきっかけのひとつが、賎ケ岳(しずがたけ)の戦いで情報将校としての活躍であったことはあまり知られていないです。
その後の太閤検地で、担当者として三成が現場へ赴くのは事実上敵国に乗り込むようなもの。
「関ケ原」で決起してからの三成の動きはクーデターのお手本とすらいえるです。
最初は豊臣家から「反乱者」と見なされていたけど、約1週間後に毛利輝元が大阪城に入った時は、三成は徳川家康に対して圧倒的な優位を築いていたです。
家康はしばらくの間、忠実だったはずの奉行らが三成側に寝返り、自分が豊臣政府の最高権力者から反乱軍の首領になったことに気付かなかったみたい。
その三成の、3つの戦略ミスはなんだったのか…
家康の反転攻勢のスピードを読み切れなかったことが大きいと指摘。
それが兵力の分散を招いた。
三成ら西軍の戦略は支配地を拡大する「面」の戦い、家康の戦略は中央突破を軸とする「線」の戦いだったとみるです。
西軍は京都・大阪を掌握したのちは北陸・伊勢・京都北部と戦線を拡大し、どの戦場でも有利に戦いを進めていったです。
毛利軍は四国、中国地方へも出兵。
その一方で兵力の分散のため、三成が担当していた濃尾方面軍は手薄になったです。
その戦略ミスが現実化したのが岐阜城の戦いとみるです。
岐阜城攻防戦では兵力差が東軍約3万5千に対し西軍は約6千と大きな差がついていたです。
岐阜城主の織田秀信は祖父・信長の例にならって野戦を仕掛けるが…
岐阜城も約半日で…
岐阜城はいわば織田家の聖地で、大きな意味を持っていたです。
もし秀信が籠城策をとれば東軍の福島正則、池田輝政らかつての織田家の臣下は攻めなかった可能性も残るです。
それまでの西軍有利の流れを変えたダメージは大きく、大阪城の西軍首脳にまで動揺が広がったです。
実際、京極高次は西軍から離脱し約3千で本拠地の大津城に立てこもったです。
同城は9月15日に開城するですが、その日がちょうど関ケ原合戦の当日。
攻城側の西軍1万5千の将兵は決戦に間に合わなかったです。
情報戦の面でも三成は大きく後れを取っていたです。
家康は反徳川で同盟した東北の上杉景勝軍と三成ら西軍主力との情報ルートを遮断。
三成は中間地点の上田城で戦う西軍の真田昌幸に何通も書状を送り、上杉軍と連絡してくれるよう依頼。
その真田宛の書状もいくつかは家康の手にわたっていたです。
岐阜城陥落を知った家康は江戸から最前線へ急行したが、三成はその具体的な動きを把握していなかったフシがあるです。
一方、家康は秀頼の不出馬など大阪城の動きを確認できていたです。
東西両軍に保険をかけていた武将は大勢いたです。
その状況を積極的に活用したのは家康。
大阪城にも徳川シンパは残っていたというです。
本来ならば戦場での戦闘より情報戦こそが武将・三成の得意分野。
三成が決起直後に自らを豊臣政府軍、家康を反乱軍と逆転できたことで油断が生じたとみるです。
油断が兵力の分散や情報戦の軽視を招いたとしているです。「
秀頼を擁立している自分らに積極的に攻めかかってくることはあるまいと考えていたところを家康はその隙をついたです。
豊臣政権への信任は三成が信じていたほどではなかったです。
さらに家康は、シンパを形成するための多数派工作を行っていたです。
黒田長政や細川忠興らは豊臣政権下では先行きの見通しが暗かったと指摘。
「反乱軍」になっても家康に従う強い意志を持った武将が少なくなかったです。
大阪城の西軍首脳と三成の戦略にブレがあるのが致命的弱点。
最大の誤算は西軍首脳の戦略目標にブレがあった点。
西軍首脳に数えられるのは三成のほか毛利輝元、宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、安国寺恵瓊--と多い。
三成が指導する方針で皆が一致したわけではなかったです。
これまでは三成が「反徳川」のリーダーとして毛利や宇喜多らを誘い込んで関ケ原の戦いに臨んだと説明されてきたです。
三成は西軍首脳の1人ではあっても首謀者ではない。
単独で反徳川闘争を始動し、後から大々名へ協力を呼びかけるような無謀な人物ではなく、むしろ毛利、宇喜多ら大老グループが積極的だったため連携に踏み切ったです。
毛利輝元は1年半前に「7武将襲撃事件」でも三成側での軍事行動を考えていた。
西軍は共同謀議で決起したが、豊臣家を守るという三成の思惑と毛利家を拡大したいという輝元の思惑が異なる同床異夢状態が西軍の弱点。
その毛利輝元が、家康との不戦協定へスタンスを変えていくです。
(1)上杉征討軍のほとんどがそのまま家康に従ったこと
(2)岐阜城が簡単に開城したこと
(3)大津城・京極氏の離反――
といった西軍の予想外の不利な状況が続いていたからです。
さらに「輝元自身、当初から短期間での決着を望んでいなかった」です。
政治的混乱が長引き、その間に四国・九州など西国の掌握を輝元が企図していたため。
従来は毛利一族の有力武将であった吉川広家が、独断で黒田長政ら東軍と交渉したとされてきたですが、最新の研究では輝元自身の指示で吉川広家が動いたとされるです。
輝元が信頼する側近で、戦後には西軍首脳の1人として処刑される安国寺恵瓊も、そうした自軍の動きを黙認していたです。
結局毛利軍の不戦と小早川秀秋の裏切りが関ケ原合戦の東軍勝利を決めたのは周知の通り。
だけど戦後処理は輝元の期待と裏腹に領国を約3分の1に減封されるという結果に終わったです。
家康と三成の政治指向には共通点も少なくないです。
家康政治の特徴として「法の支配」を挙げるです。
家康は「武家諸法度」「宮中並公家諸法度」など多方面で法の整備を推進。
一方、太閤検地の具体的な推進者だった三成の目指したものも税収の全国共通ルールの徹底。
江戸時代に老中らには譜代大名が就任し、前田・伊達といった大々名に参画させなかった制度の原型を豊臣政権末期の「5大名・5奉行制」にみるです。
基本的には権威と権力の分離で、豊臣時代の大老にも具体的な政治的権力はなかったです。
また家康の生涯の趣味として「鷹(たか)狩り」が知られているですが、三成にも自分の鷹のすばらしさを喜々として語る書状が残っているです。
関ケ原前夜には一時的に徳川家と石田家が友好的な関係にあったことを指摘。
家康が京都・伏見城から大阪城に移る際に安全のため実兄の城内屋敷を提供。
家康も三成の嫡子の大阪城勤務を認めているです。
終始反家康の立場を貫き常に挙兵の機会を狙っていた、時勢の読めない人物ではなかったです。
家康と三成は最初から仲が悪かったわけでもない。
家康60歳、三成39歳、秀頼6歳。三成には家康と妥協して時間を味方に付ける選択はなかったのかなぁ~
三成が秀吉家臣団中で頭角を現していったのは、ちょうど秀吉が織田家の権力を奪取していく時期だったです。
秀吉は本能寺の変後、信長の嫡孫・秀信を立てつつ子息の信孝、信雄を攻めていったです。
その経緯を間近で見ていたのが側近の三成。
三成氏は秀吉が三成の外交担当に上杉、佐竹、真田といった「家康包囲網」の諸大名をあて、一貫して家康に対抗する立場に置いていたと指摘。
秀吉が生きている間は対立することはなかったです。
三成の心中には家康を潜在的な敵と見なす秀吉の底意が刻み込まれていったのではないかと推定。
日本で一番知られている合戦は、天下分け目の戦いとされた「関ケ原合戦」。
戦後は全国の3分の1を超える約630万石が勝った東軍に分け与えられたでつ。
徳川家康率いる東軍と石田三成の西軍が関ケ原(岐阜県関ケ原町)で戦い、勝利した家康は約260年続く江戸幕府を開いたでつ。
両軍合わせて約16万人が激突したこの一戦は、天下取りを狙う家康が反対勢力を誘引して引き起こし、ほぼもくろみ通りに一気に決着を付けたとの評価が一般的。
だけど最新の研究では、家康が望んだような展開とはかけ離れた不本意な戦いであったことが指摘。
「関ケ原」における家康の計算と誤算を検証するでつ。
「関ケ原合戦のような大会戦を家康は望んでいなかっただろう」――。
「家康は既に実権を握っており、より安全に政権を奪取する道があったはずだ」と分析。
それまでの権力闘争に圧勝し政略が順調に進んでいたから。
家康は1598年8月から多数派工作を始めたといわれているでつ。
伊達、福島ら地方有力大名との婚姻政策だ。秀吉が生前に決めた「五大老」(家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)と「五奉行」(三成、増田長盛、長束正家、前田玄以、浅野長政)による集団指導体制は早い時期から形骸化。
三成ら奉行4人(浅野を除く)と大老の毛利が「起請文(きしょうもん)」を作成して同盟した点を指摘。
「仮想敵」はもちろん、大老筆頭の家康。
99年閏(うるう)3月の「石田三成襲撃事件」を家康派らによる「事実上のクーデター」と位置づけ。
三成は加藤清正、福島正則ら7将に狙われただけではないでつ。
拠点としていた大阪城も片桐且元ら「隠れ家康派」に占拠され三成派は入城できなくなっていたでつ。
これまでは家康が公正な第三者として対立を調停したとされてきたでつが、実は清正ら7将は家康の統制下にあったでつ。
家康と三成派の毛利、上杉らとの間で和睦がまとまり、三成は引退を余儀なくされたでつ。
さらに名目上の最高権力者である豊臣秀頼の大阪城に乗り込み、幼君をたてる形で事実上の独裁権を握ったでつ。
家康が「天下様になった」と世間で噂されたでつ。
家康派大名が7日間で合計13万石加増されたこともあったでつ。
大名への加増は、本来秀頼にしか許されない最高レベルの権限。
「泣くまで待とうホトトギス」の句が表すように、家康には「忍耐」「熟柿(じゅくし)作戦が得意」とのイメージが強い。
しかし当時58歳の家康は素早く動き権力闘争に勝利。
一方で「政敵を1度に1人ずつ失脚させる方法を貫いた」手堅い個別撃破の戦略にも注目。
三成を隠居させてから毛利輝元が支援しているのを承知で「(家康と輝元は)今後は兄弟の間柄」と友好関係を結んだでつ。
前田家と上杉景勝との連携説があった時も、利長に標的を絞り上杉は不問。
その上杉打倒は00年6月まで待って開始。
「会津征伐」で徳川軍に豊臣家諸大名を加えた正規軍で、遠征の準備を担当したのは増田、長束、前田の3奉行。
家康が畿内を離れれば屈服していた反対派が蜂起するだろうという予想は当時幅広く共有されてて。当初は加藤清正だと思われていたでつ。
家康も当然、反対派挙兵の可能性は折り込み済み。
しかし「大規模にはならないと楽観していた」とみるでつ。
実際、最初は三成と大谷吉継が蜂起(7月12日)した程度と伝わっていたでつ。
第1の誤算は毛利輝元の参戦。
輝元には優柔不断な性格のため周囲にすすめられるまま西軍総大将に担ぎ上げられたとの印象が強い。
だけど「輝元自身が積極的だった」と指摘。
中国地方に帰国していた輝元がただちに畿内に戻った早さから「事前に三成らと相談・準備していた可能性が強い」。
7月17日に大阪城へ入り、四国・中国地方へも出兵。
宇喜多秀家も積極的に参加した。直前に家中の内紛があったことから自分の方針に賛成しそうもない家臣はあらかじめ外しておくという周到さ。
事前の謀議に加わっていた可能性は高い。
「上杉が健在なうちに家康に対抗しないと、次は自分たちがやられる番という認識が西軍首脳には共有されていた」でつ。
「増田長盛ら3奉行が三成側に付いたのが大誤算だった」としているでつ。
家康が独裁権を握っていた約1年間、3奉行は家康に忠実に従って全国行政を処理。
三成挙兵直後は、3奉行も淀殿も家康寄りで「不穏な情勢を鎮圧してほしい」との書状を遠征先に送っているでつ。
しかし三成らが説得し、毛利参戦なども確認するに至って西軍有利と判断。
3奉行は家康に対する弾劾状を全国に発送、家康は公的権力者としての立場を剥奪され、一転「叛徒(はんと)」の立場になったでつ。
各個撃破どころではない。2大老・4奉行(三成復帰を含む)を同時に敵としたわけ。
家康は8月5日に江戸城へ戻り、嫡子・秀忠の徳川主力軍3万8千を中山道経由で先発させるものの自身は約1カ月滞在し情勢を見守ったでつ。
「福島正則ら義務的従軍で付き従ってきた武将がどう出るか分からなかったからだろう」とみるでつ。
清洲城(愛知県清須市)まで進んだ福島ら豊臣系武将に積極的に西軍との開戦を促す使者を送ったのは「東軍からたもとを分かつ者をあぶり出す家康一流の作戦」はずだったが、ここから徳川軍団の誤算の連鎖が始まったでつ。
挑発的な督戦の言葉に激高した福島、池田輝政ら東軍の武将は、勢いにまかせて堅城で知られる岐阜城を半日で陥落させてしまうでつ。
さらに三成ら西軍首脳が集まる大垣城まで、目と鼻の先の距離まで進撃。
督促の効き目があり過ぎ、このままでは家康も秀忠も参加しないうちに東西決戦が決着してしまう恐れが生じてきたわけ。
そうなれば「家康は戦後における立ち位置を失い、政治的発言権はなくなる」。
家康にとっては予想を上回る早い展開であったため、慌てて強行軍で東海道を進んだでつ。
むろん前線の諸将には不用意に戦端を開かないように自制を促す書状も送ったでつ。
9月1日に江戸を出発した徳川軍は約3万3千の大軍。
ただ1万石以上の大名クラスは秀忠軍に加わっていたため家康を守る防衛的な性格が強い旗本中心だったでつ。
最前線に到着したのは14日で「家康抜きの関ケ原」という最悪の事態は回避できたでつ。
ただ今度は秀忠軍が間に合わなかったでつ。
当時の命令伝達速度の問題から、家康が早期決戦に切り替えたことなど知るわけもなく、秀忠は従来方針通り上田城を攻めて苦戦などしていたでつ。
結局関ケ原の戦いは、実態が豊臣系大名同士が東西両軍に分かれての戦闘になったでつ。
戦後処理で西軍から没収した約630万石のうち、約8割の580万石が東軍の豊臣系武将に配分されたでつ。
開戦当初に「徳川四天王」の井伊直政が抜け駆けしたというエピソードは、戦場で存在感が希薄な徳川軍のアピールを狙ったのかもしれないでつ。
一方で「関ケ原合戦の布陣については諸説入り乱れた状態で、小早川秀秋が松尾山にいたこと以外ほとんど分かっていないのが現状」との指摘もあるでつ。「古戦場の発掘調査で鉄砲の弾が1つも出てこなかったなどが背景にある」でつ。
小早川の裏切りを促すため家康が鉄砲を撃ちかけたとの有名なエピソードも、実は後世の創作ではないかという説が出され、支持する研究者も少なくないでつ。しかし「華々しい一斉射撃ではなく、誤射を装った警告の鉄砲射撃だった」と唱えるでつ。
家康は細心の注意を払いながら参戦を促していたという見立て。
誤算続きであったにもかかわらず、最終的に家康が勝利できた要因はどこにあったのか。
1つは家康が中央政局の動きに集中し、政権奪取の目標が終始ぶれなかったことにあるでつ。
毛利輝元は四国・中国への侵攻を図り、上杉景勝は江戸の徳川軍ではなく山形地方へ進出したりしていたでつ。
輝元は養子への領土割譲、景勝は自領の未整備という内部の問題があり、領土拡大が大きな関心事だったよう。
「毛利も上杉も政権中枢の問題のみに集中できなかったのに対して、家康は権力奪取に集中できたことは大きい」。
政権問題のみに注力していたのは、家康を除けば、あるいは三成だけだったかもしれないでつ。
三成は関ケ原の戦備のために蓄えを使い切ったでつ。
九州で活躍した黒田如水も含め、みな戦国時代の再来まではいかないとしても、相当な長期戦を予想していたでつ。
江戸進発後の家康だけが短期決戦を指向していたでつ。
さらに「関東250万石の経営が順調で省みる必要がなかったことが大きい」と指摘する。
領国経営のため帰国する有力大名が相次いだでつ。
家康だけが京都・大阪に滞在し続けた。宇喜多秀家は家中を二分する「宇喜多騒動」を引き起こし、島津義久、義弘は重臣の「庄内の乱」の解決に追われていたでつ。
関ケ原の10年前になる家康の関東転封は畿内からより遠ざけたい秀吉の計算が働いたともいわれるでつ。
家康自身も本拠地の東海・中部地方から離れるのは当初本意ではなかったかもしれないでつ。
しかし「家康は関東へ移ったことをプラスに作用させた」でつ。
「従来の土地とのつながりがリセットされたことで家臣団の再編成が可能。
井伊直政や本多忠勝、榊原康政が多くの領地を与えられ、全国レベルで頭角を表し始めたのはこのタイミングだった」。
不本意な異動をプラスに変え、結果的に中枢での存在感を大きくしていくことができたでつ。
最近ブームと言うか城に関する本とか番組が多いですなぁ~
そういえば最近、城廻してないなぁ~
出張した時に城のある街に行きたいですなぁ~
謎も多いけど陣配置図が見つかったです。
これでまた新たな発見があるかも。
推定が確定に代わるとまた歴史もおもしろくなるです。
大阪万博もだけど、高度成長時代のシンボルですなぁ~
世界遺産にしたいです。
ここでいろんな夢を描いた時代だったのかなぁ~
来年行われるでつなぁ~
だけど古い風習も残ってるでつなぁ~
さて年号は何になるのかなぁ~